「この状態で飛行機に乗れるのか?今後の予想。どうしたらいいのか?注意点」と書かれたメモが出てきた。
これは、日本を経つ前の2004年8月に医師に尋ねようとしたメモの一部。
2004年5月、私はおばといっしょに主治医から、「このままだとご主人はあと3カ月くらいじゃないか」と余命宣告を受けた。予想していたことが現実に迫ったこのとき、本当にがっくりして、すぐには夏樹の病室に戻れなかった。
夏樹は日ごろから、病人は孤独が一番辛いから、例えば家族に嘘を吐かれるといった信頼関係が崩れるようなことは一番悲しいと訴えていた。
だから、夏樹にはありのままに本当の事を話さなくてはいけないと思っていた。
でも、このとき、おばが「3カ月という数字は絶対に言うのはやめよう」と言った。
そして、私はそれに従うことにした。
病室に戻った時、明るい顔して夏樹が「どうだった?」と聞いてきた。
「うーん、やっぱり治療の見込みがなくなってきて、このままだと6カ月ないかもしれないって」と嘘を吐いた。
「そうか~。」
それまでは、すべて夏樹も一緒に医師からの説明を聞いていた。そして、気転の利くおばがいつも必ず同席してくれた。私達夫婦だけだとあまりに頼りなくて、医師から聞いたことを理解できなかったり、都合のいいように解釈してしまったり、頭真っ白になり、何をメモしたのかわけがわからなくなる恐れがあるから。
でも、そのときはおばが「主治医の先生は、夏樹の顔を見て絶対に言えないことを抱えているだろう」と事前に感じ、「ちょっと、夏ちゃんも一緒だと言いづらいことを抱えてそうだから、一度寛子ちゃんと2人で話を聞く機会を作ってもいいかしら?」と夏樹に言ったのだ。
夏樹も「そうだね。それがいい」ということで、おばと2人で聞きにいったのである。
主治医の先生は、夏樹と同じ世代で同じ年頃の子供もいるせいか、心を痛めて、いつも目を赤らめていた。
そして案の上、「あと3カ月くらいでしょう」とはっきり言った。
2度の大きな手術を受けたにもかかわらず、癌の病巣がたくさん残っていた。
外科の先生に「ごめんね、何もできなかったよ」と言われ、「そのまま閉めようかと思ったけど、それじゃあまりに可哀相だから、一応大きいのは取ったけど、まだ点々と無数に病巣が残っている。もう好きなことして暮らした方がいい」と言われた。
あの頃は、行う予定だった肝動脈塞栓術の治療もできなくなって、肝臓には効き目の少ない抗がん剤をやってみるかどうするかという話と同時に、ホスピスも考えた方がいいとのことで、何軒が都内のホスピスを見学に行ったりした、精神的に非常に苦しい時期だった。
そして、日本でのホスピス生活を考え始めた時、「日本で最期の時を過すのは、どうも夏樹らしくないね」ということで、グアムに帰ろうかなんて話も出てきた。
早速、友達にグアムのホスピスはどんな感じなのか尋ねてみたら、台風で閉鎖されてしまい、グアムの人は自宅療養か母国に帰るか、ハワイかアメリカ本土のホスピスに行くという話だった。
「そうか~、ハワイか」
「家族で思い出作りに旅行でも行けるうちに行こうか?」
・・・そして、思い切ってコナツが産まれたハワイに行こうという話になったのだ。
しかし私自身は、「海外? 身体大丈夫かな? あと3カ月? 見た目は癌患者に見えない程生き生きして、まだ筋肉も残っているし、本当に今目の前で歩いている夫がいなくなるのか?」と、複雑な思いだった。
そして「この状態で飛行機に乗れるのか?」・・・。
東京の麻薬取締局で書類を作成してもらい、痛み止めのモルヒネを携帯しハワイに飛んだ。
子供たちも学校を2週間休ませた家族旅行。
ところが、それがハワイ移住の下見の旅行になるとは、想像もつかなかった。
がんセンターで隣のベッドにいたRさんに背中を押されたのも大きな理由だと思う。
そして、私一人で将来移住するのは難しいだろうから、今のうちに自分が父親として新しい生活を始める準備をしなくてはとも考えたのだろう。時間も迫っていたから、夏樹は持ち前の行動力でハワイ生活の準備を急ピッチで進めた。
旅行中は、微熱が続き体調もいまひとつ。でも、寝ながらでも電話はできるので、あっちこっち電話して、S子姉の大きな助けによって住まいも学校も決め、車もオーダーして、すべてが短期間に奇跡的に整ってしまったのだった。
そして、もう一度日本へ戻り、抗がん剤治療と日本の家の片付けをして、移住の準備。
ところが、いきなり静脈瘤の破裂で下血。
「この状態で飛行機に乗れるのか?」という状態にまたなってしまった。出発予定日の8月まで、生かされるかどうかもわからないのに、引越しの準備。出発ぎりぎりまで、タマキの保育園の退園届けが出せなった。子供達の学校だって、本当に転校するのかどうか、出発当日までわからなかった。
「本当にこの状態で飛行機に乗れるのか?」
・・・あれからもう1年半が過ぎようとしている。
飯島寛子